「報恩講にお参りする人たちが浄土真宗の門徒」と言っていいほど、「報恩講」と「門徒」は切っても切れない関係にあるのですが、核家族の多い都市部では、報恩講を知らないご門徒(?)が増えてきているようです。報恩講は、浄土真宗の教えを聞いて、私たち万人が救われる道を説いてくださった宗祖親鸞聖人の、ご苦労を偲んで営まれる一年でもっとも大切な法要なのです。
私たちは、先祖の年忌法要には比較的気を配りますが、その先祖の方がたが心から慕われたのが親鸞聖人であり、また「聖人のみ教えを依りどころに人生を歩むように」と私たちに願われているのも先祖の方がたです。聖人のご恩を忘れるようでは、せっかくのご先祖の苦労も水泡に帰してしまいます。親鸞聖人のご恩に感謝し、聖人がお示しくださった阿弥陀さまのご本願を仰いで、お念仏申す人生を歩むのが門徒です。報恩講はそうした私たち門徒にとって、何よりの勝縁となる法要なのです。
ところで、この報恩講は本山本願寺をはじめ、全国のお寺、一般家庭でも勤められます。
本山では、毎年、聖人のご正忌(祥月命日の一月十六日)に合わせて一月九日から十六日までの七昼夜、勤められますので、「御正忌報恩講」と言い、「御七昼夜」とも呼んでいます。
各お寺では、一般に、本山の法要に先立って、年内に勤める慣わしで、そのため「お取り越し」とか「お引き上げ」とか言っています。
これらの報恩講のお飾りは家庭で勤める報恩講も含めて、もっともていねいに行い、法要後は、精進料理のお斎を出したりします。
いずれにしても、努めて報恩講のご縁を持ち、お参りしましょう。
ポイント!
▶︎ 報恩講は、親鸞聖人のご恩に感謝するもっとも重要な法要
▶︎ 各お寺や家庭で勤められる報恩講にお参りしましょう。
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法事を営む際の準備と進行についての注意点を述べてみましょう。まず、前もって行うことは、お寺の都合を聞いて日時を決め、故人と縁のある親戚、知人に案内を出すことですが、問題は、当日の法要の準備と進行です。最近は、お勤めを始める時になっても、施主や家族の方はじっと座っていて、仏前の準備を僧侶任せにされることが多くなりました。
しかし、法事というのは、故人と縁ある方がたが仏法僧の三宝供養の心から行うものです。つまり、仏さま(仏)とその教え(法)、教えを伝える人びと(僧)を心から敬い、仏さまへの報恩感謝の気持ちで営むわけです。したがって、集まった親戚・縁者が僧侶を招き、報謝の心でお勤めに臨むのであり、法事の準備進行はその代表である施主が行うというのが役目です。
それでは、具体的にどう進めればよいかを述べましょう。
?まずお招きしたご僧侶のために、お勤めの時に座るお仏壇前の座のほかに、休んでいただく座を用意します。(僧侶が到着したらそこへ座っていただく)。
?次に、準備が整ったら、僧侶には法衣の着替えを案内し、自らはローソクや線香に火をつけ、焼香用の香炉に火だねを入れます。“回し焼香”をするのであれば、火だねを入れた香炉と香盒、それらを載せるお盆を用意しておきます。
?これらの準備が整えば、参拝者、続いて僧侶に所定の座(僧侶は控えの座)についてもらい、開式の挨拶をします。そして僧侶にお勤めをお願いするわけです。
?読経中の焼香は僧侶の指示に従い、手際よく行います。(焼香の作法は150項参照)
?読経が済んでも、御文章の拝読や法話がありますので、静かにお聴聞しましょう。
?法話がすむと、味わいも含めて僧侶にお礼を述べ、閉式となりますが、お斎(食事)があれば、その旨を告げ、準備します。お斎はできるだけ精進料理がよいでしょう。
なお、法事の時は門徒式章をかけましょう。
ポイント
▶️尊前の準備が僧侶任せにならないように
▶️法事の進行は施主が行う
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しかし、最近は、納骨のあり方が多岐にわたっていますので、流行に惑わされずに、自らの信仰と死生観を尊重しながら選んでいただきたく思います。
主な納骨の形態としては、まず、寺院の境内墓地や市町村の公営墓地、公益法人などが運営する民間墓地への納骨があげられます。これらは墓所の使用権が代々受け継がれていくことになります。次に、いわゆる納骨堂の中にロッカー式の納骨スペースが設けられているものがあります。これには上段がお仏壇になっていて、永代にわたって納骨使用するものから、上部にお仏壇がなはなく、単に納骨スペースを期限付きで使用し、その後は管理者に委ねるものまであるようです。また、初めからお寺などが管理・維持して、遺族らには使用権が生じないかたちで納骨する共同墓もあります。因みに、最近は少子化を親子関係の希薄化、あるいは経済的な要因も大きいでしょうか、このかたちの納骨が増えてきているようです。
さらに細かく言えば、都会の狭い空間を利用した壁墓地や立体墓地、それに自然に帰るイメージを強調した樹木葬などの自然葬といった埋葬方法まであるようです。
いずれにしても、心得ておきたいのは、納骨のかたちを最終的に決めるのは、亡き人本人ではなく、亡き人を偲ぶ側の人であるということです。もし、後を継ぐ人がおられない場合は、本人が生前に、信頼おける方に頼んでおくことになるでしょうが・・・・・。これは致し方ありません。
本筋に帰ってーーー。「葬」の意味から言っても、お墓に納骨するのは亡き人を敬い、その遺徳を偲ぶための仏縁作りと思っていただきたいのです。
ポイント
▶︎お墓を継ぐ人のことを考えて
▶︎納骨するのは仏縁作り
出棺前に「納棺尊号」というお名号が書かれた和紙を棺に入れる慣わしがあります。これは、浄土真宗の礼拝の対象が阿弥陀さまであることと深く関わっています。
と言うのは、葬儀場では、もちろん正面にお名号などのご本尊をお掛けして礼拝•読経が行われます。しかし、葬儀がすんで遺体を火葬場へ運ぶ時や火葬場に着いてからは、ご本尊がない場合が多いのです。つまり、そうした改めてご本尊を掛ける機会がない場合に、棺中のお名号が礼拝の対象になるわけです。
たとえば、葬儀の時、いわゆる霊柩車に棺を乗せてお見送りします。この時、合掌礼拝します。遺体に手を合わせているようですが、実はそこに「納棺尊号」が置かれてあり、阿弥陀さまに合掌している形になっているのです。また、火葬場では、到着するとすぐに棺の前で礼拝•読経が行われます。この時も棺の中の遺体にではなく「納棺尊号」に礼拝していることになります。
私たちは、亡き人との縁が深ければ深いほど、その遺体への未練は絶ちがたく、亡き人への思いが募れば募るほど、遺体へ目が向いてしまいます。人間として、それはむしろ自然なふるまいと言えましょう。
だからこそ、私は「納棺尊号」を入れる意味があるのだと思います。遺体にはお名号となった阿弥陀さまが付いていてくださるのです。まるで亡き人を包むかのように、しっかりと抱きとって、たとえ猛火の中でも、けっして捨てずに寄り添ってくださるのです。
火葬場で、遺体にすがって離れないご婦人がいました。その時、「あなたは一緒に窯の中には入れませんが、阿弥陀さまはご主人とともに入ってくださいますよ。どこまでもご一緒に行ってくださいます。阿弥陀さまにお任せしましょうよ」と言うと、ご婦人の顔がホッと安心されたような表情になりました。「たのむべきは阿弥陀さま」ということを「納棺尊号」によって知らせていただきました。
ポイント
▶︎棺の中には「納棺尊号」といって、お名号がはいっている
▶︎遺体にではなく、そのお名号に合掌礼拝する
お仏壇の話から始めます。
お仏壇とは字のごとく、仏さまがいらっしゃる壇のことです。仏さまとは、浄土真宗の場合、特に断りがなければ阿弥陀如来をさします。いのち(寿命)とひかり(光明)が限りない(無量である)というのが「阿弥陀」の意味。「仏」は永遠普遍の真理を表します。つまり、阿弥陀という真理・真実を表す仏さまがおられる場がお仏壇というわけです。
よく勘違いされるには、「家族の誰かが亡くなって初めてお仏壇が必要になる」と思われることです。しかし、真実を仰ぐのは生きている私たちです。いろいろな悩み事を抱え、悲しみや怒りに心乱す私たちに、真実の安らぎを与えようとされているのが仏さまです。その仏さまに、“私”が出遇う場がお仏壇です。
もちろん、お仏壇を通して亡き人に遇うこともできます。現に、「家庭の死」という悲しみを縁としてお仏壇を求められる方も多いでしょう。しかし、だからと言って、お仏壇は「亡き人が入られるところ」と決めつけてしまうと、本当の意味がわからなくなる恐れがあります。
お仏壇は、実体としての亡き人(の霊魂)が「入るところ」なのではなくて、亡き人の「尊さや真実心に触れるところ」と言えばよいでしょうか。また、亡き人の「願いを聞く場」でもありますし、「仏となって、つねに私を見守ってくださる亡き人の心に出遇う場」でもあります。つまり、亡き人も私も、ともに仏さまに包まれ、心の温もりを味わわせていただく場がお仏壇なのです。
ですから、亡き人を偲ぼうとする方も、家族の皆が心通わすことが大切だと思われた方も、一人住まいの方も、長男であろうが、末っ子であろうが、人間、どんなスタイルであっても、生きる依りどころとなってくださる仏さまをお迎えするために、まずはお仏壇を自分たちの生活空間に置いてください。
ポイント
▶︎お仏壇は仏さまの真実に私が出遇うところ
▶︎お仏壇を求めるのに、家族の死に左右されなくてもよい
▶︎家ごとにお仏壇を安置しよう
葬儀を営む目的の一つに、(亡き人の)「死後の行き先を示す」というのがあります。つまり亡き人は、ただ消滅し無価値になるのではなく、かたちを超えて普遍的な価値を持つ存在となって今もなお、私たちに関わり続けてくださると見ていくのです。その亡き人の落ち着き場所を示すというのが、葬儀の大切な役割というわけです。
そんな中で、最近は、亡くなった方の行き先を「天国」と表現される方が非常に多くなりました。弔辞などでも「昇天された・・・」とか「天国に召された・・・」と述べられているのを聞くことがあります。キリスト教信者でもないのに、と首をかしげたくなりますが、この天国という言葉、どうも漠然と使われていて深い意味はないようです。しかし、やはり、浄土真宗の葬儀ではふさわしくありません。というより、浄土に生まれることこそが浄土真宗の教えの根幹であり、阿弥陀さまがすべての人びとを救いとるために用意してくださった究極の安住居場所なのです。亡き人がどこに行かれるのか、その行き先をしっかりと見定めていく、そのためにお聴聞していくことが肝要です。天国ではなく、浄土だということを、言葉だけでも知って、使っていただきたく思います。
このほか、弔辞でよく述べられる言葉に「草葉の陰で安らかにおやすみください」というのがありますが、これも浄土に生まれた亡き人の有りようとかけ離れていて、ふさわしくありません。苦悩し迷う私を救うためにです。眠ってはおられないのです。遠いところに行かれたのではなく、実は、いつでもどこでも、私たちの傍に来て、励まし支えてくださるのです。それが浄土に生まれるということです。
また「御霊前」「御霊」という言葉も使いません。
ポイント
▶︎ 弔辞で使わない言葉
「安らかに眠る」
「草葉の陰」
「昇天」
「御霊前」など
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また、お寺では、多少の差異はあるにせよ、年間を通して、さまざまな法要、法座が催されています。それらの法会(仏法の集い)に積極的に参拝、参加されることをお勧めします。お寺でお勤めされる代表的な法要については、後の項で述べますので、そちらをご覧ください。
お寺で行われる法要・法座で、こころえていただきたいことがあります。それは、「お寺の法要・法座は、いわゆる文化講座ではない」という点です。
どういうことかと言いますと、公共の施設やマスコミの主催などで行われる文化講座は、主に知識・教養を身につけるものですが、お寺の法座は、自分を飾り立てていた自我の煩悩に気づき、煩悩によって覆い隠されていた大事なものが何であるかを聞いて明らかにしていく機縁となるものです。
浄土真宗で言えば、その大事なものが阿弥陀仏のご本願であり、そのはたらきであるお念仏です。お念仏に込められた阿弥陀さまのお心を聞いていく講座がお寺の法座であり、法話なのです。これを聞法と言います。
「学仏大悲心」という法語があります。七高僧の第五祖、中国の善導大師というお方が著された『観経疏』という書物の中に出てくる言葉ですが、意味は「仏さま(阿弥陀さま)の大いなる慈悲のお心(私たち一人ひとりを漏らさず必ずすくい取ると誓われ成就された悲願のはたらき)の真意を学ぶ(信じて受け取る)」ことです。
すなわち、お寺の法座は余計な飾りを削いで、人生で一番大事なことだけを選りすぐり受け取り、心をスリムにしていくものです。
ポイント
▶︎法座は知識や教養を身につけるものではない
▶︎聞法は阿弥陀さまのお心を受け取ること
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なお、新型コロナ感染拡大防止の観点から参加者の方々の密集を避けるため、このたびは会所を2ヶ所(2ヶ寺)とし、各ブロック(寺院所在が埼玉県内の東西南北)に分けて勤修ならびに開催となりました。また法要の勤修と開催にあたっては、十分な換気や消毒をはじめ、会場(本堂)の椅子の配置にもソーシャルディスタンスを確保した感染予防対策がとられました。また同時に、各々の状況を鑑みてオンラインでのライブ同時配信(中継)も実施し、法要に参加できない方々もオンライン参拝にてご聴聞いただくご縁となりました。
来年、本山・本願寺で厳修される「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」に先立ち、こうして新型コロナ禍ではあrましたが、創意工夫と感染防止対策を実施した上で埼玉組でも勤修ならびに開催できました事、事務局として心から嬉しく、また多くの皆さま方のお陰であったと感謝申し上げるばかりです。合掌
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「お盆にはどのようなお飾りをすればよいのですか」と、尋ねられることがあります。これは、お盆独特の飾り方があるのではないかと思われているからでしょう。
確かに一部の風習では、精霊棚を作って、お膳を用意するところがあるようですが、浄土真宗ではそういったことはいたしません。一般の法要と同じように、菓子、果物といった供物を仏前にお供えし、前卓には打ち敷をかければよいでしょう。
ちなみに精霊棚というのは、先祖の霊を迎えてもてなすため用意する棚で、位牌を並べ、その前に精進料理のお膳や迎え団子、その他盛りだくさんの果物、野菜を供えるものです。また、ナスやキュウリにおかしらをさして、牛と馬に見立てます。これらは先祖の霊が乗るための乗物だそうです。そして、この精霊棚の前で行う読経が、いわゆる「棚経」と呼ばれているものです。つまり、先祖の霊を丁寧にもてなし、お慰めして追善回向しようとするのが、精霊棚の慣わしです。
しかし、こうした風習はお盆本来の由来から言えば少し筋違いではないかと思います。
そもそもお盆とは、仏弟子の目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡き母を救おうとして、その母に食物を与えるのですが、救われず、お釈迦さまの導きで衆僧に供養して初めて救われた(その日が七月十五日)と言う故事から起こった行事です。すなわち、亡き母や特定の先祖に供物を捧げるというのではなく、自らが深く仏法に帰依して、限りなき仏さまのはたらきを仰いでいくということでしょう。言い換えれば、ご先祖のご恩に報いる道は私自身がお念仏を喜ぶ身となることです。ご先祖への報恩の思いから仏法を聞かせていただき、阿弥陀さまのお力によって救われていく身の幸せを喜ぶのが浄土真宗のお盆です。
ですから、精霊棚を設けるのではなく、ご本尊の阿弥陀さまを心から仰ぎ、お供え物等をしてください。
なお、「棚経」という言い方もしません。
ポイント
▷ 精霊棚は設けない
▷ 先祖の霊に供物を捧げるのではなく、阿弥陀さまに供える
▷ 棚経という言い方もしない
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浄土真宗の教えは「阿弥陀仏より賜る信心一つで、死と同時に浄土に生まれ、仏さまと成らせていただく」という教えです。したがって、葬儀もこの教えに則して行われることは言うまでもありません。亡き人はすでに浄土に参られ、仏さまとなって私たちにはたらきかけてくださっているのです。この点をしっかりと押さえておきましょう。
なぜこのようなことを言うかと申しますと、葬儀には、「死出の旅路」の発想に基づく風習も、根強く残っているからです。
それによると、故人は死後”冥途への旅”にトボトボと出かけるそうです。そのため、遺族らは旅支度を整えるなど”旅路(修行)の手助け”をしなければならないわけです。たとえばワラジや脚絆、手っ甲、経帷子といった旅装束を死者に着せたり、枕元には枕団子や枕飯(一膳飯)を供えたりします。これは旅行中の弁当代わりだそうです。
こうして準備を整えて「さあ、迷わず冥途に行ってくれ」となるのでしょう。
しかし、先に述べましたように、亡き人はすでに浄土に参られ、仏さまに成られているのです。旅する暇もなく、阿弥陀さまのはたらきによって救いとられているのです。したがって、旅支度をする必要はありませんし、修行の手助けや冥福を祈る必要もないわけです。また当然のことながら魔よけの刀も必要ありません。
もっとも、こんな風に「必要なし」とばかり言っていると「では何もしないのか」と言われそうです。
そこで、遺体の扱いについて申しましょう。まずお仏壇あるいはご本尊の傍(正面は避ける)に、なるべき北枕になるよう安置します。顔は白布で覆い、手を合わせて念珠をかけます。また、納棺の際には体をていねいにぬぐい、清潔な白衣を着せてあげてください。
このように、けっして遺体を粗末に扱うのではなく、教えにそぐわないことをしないまでです。
ポイント ▷ 故人は死と同時に仏さまになられている
▷ ワラジや経帷子、枕飯、魔よけ刀は必要ない
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実体として捉えた亡き人がお仏壇の中にいるわけではない、ということをもう一度も仕上げたいと思います。一時、よく唄われた『千の風』は、お墓の中に(亡き人は)いないというような歌詞でしたが、それとよく似ています。
すなわち、実体としての亡き人はお仏壇の中にはいないけれども、かたちやこだわりを超えて、仏さまとなられた亡き人は、いつも私に寄り添ってくださっています。その亡き人に、お仏壇を通して遇うということです。実はそれがお仏壇のお仏壇たる所以なのです。「亡き人は阿弥陀仏の救いによって浄土に生まれ、仏さまになられている」と味わいます。そして、お仏壇はその阿弥陀さまの浄土を表しているのです。
本来、浄土は色もかたちもない真実そのものの世界であり、私たちの施行を超えた世界です。それをかたちに表そうとしたのがお仏壇の造りだと言われています。ということで、亡き人は、お仏壇のどこかにおられるのではなく、阿弥陀さまの浄土に生まれ、仏さまとなっていつでもどこでも私たちに寄り添い、一人ひとりを輝かせようとはたらいておられます。お仏壇はその亡き人が生まれた浄土を表しているのです。
さらに、浄土に生まれた亡き人の心を伺えば、私たちに「自分を敬い、手を合わすようにせよ!」と上から目線で思ってはおられないでしょう。それよりも、私たちに「限りあるいのちを精いっぱい生き抜いてくれ。そのためにも、阿弥陀さまの深い慈悲のお心を頼りに、人生を力強く歩んでくれよ」と願われていることでしょう。
お仏壇で阿弥陀さまを仰ぎ、お心を受け取っていくことが、そのまま亡き人の心にかなっているのです。
! ポイント ▶ 亡き人は阿弥陀仏の水で浄土に生まれる
▶ お仏壇を通して、浄土に生まれ仏となった亡き人を偲ぶ
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新型コロナウイルス禍の2年弱、お寺の法要の様子も大きく変化し、一度に多くの方が集まって法要をお勤めすることが難しくなりました。こういうことは今までに無かったので、私たちも悩みました。
試行錯誤の末、現在はそれぞれのお寺が感染予防の対策をし、ご参拝の皆さまのご協力もいただきながら工夫をして法要・行事を開催しています。法要の座数を分散してお勤めする、動画配信を用いる等の対応をされているお寺も中にはございます。
そこには、こういう状況下でも「一人でも多くの方に仏法(仏さまの教え)に出あって欲しい」という思いがあります。
浄土真宗のお寺は、修行を積む場ではありません。私自身に“今すでに”はたらいて下さっている阿弥陀仏の救いを聞かせていただく場です。
浄土真宗のご本尊である阿弥陀さまは「あらゆる生きとし生けるものをお浄土に救い取り、おさとりの仏と成らせる」とはたらき続けて下さっている仏さまです。阿弥陀さまの救いは「南無阿弥陀仏」のお喚び声となって“今すでに”はたらいて下さっています。南無阿弥陀仏は「我にまかせよ、あなたを救う仏はここにいるよ」との阿弥陀さまの仰せです。その南無阿弥陀仏のおいわれを僧侶、寺族、ご参拝の皆さまが共々に聞かせていただく場が浄土真宗のお寺です。
これからも、感染対策には十分に注意しつつ、ご縁の皆さまとのつながりを大切にし、日々勤めて参ります。
どうぞお寺の法要にお参り下さい。
称 名
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法事は、主催者である施主とその家族が中心となって準備し、営まれるわけですが、同時に、案内を受けて参拝する人たちも法事を営む”一員”であることを心得ていただきたいものです。なぜこんなことを言うかといえば、「法事“はもっぱら施主が勤め、我々はそこに招待された者だ」という意識が、参拝者の中にあるように思えるからです。すなわち、施主が招待する側で、参拝者は招待された”客”であるというふうに対照的に捉えがちなのです。
しかし、法事の趣旨からいうと、それは間違いです。法事は故人に縁ある人たちが参集して、僧侶を招き、ともに仏法を聞き味わうところに意義があります。ですから、施主も、参拝した人たちも同じ立場にあるわけで、法事に集まるすべての人びとが”法事を営む一員”だということです。
もっとも、具体的に形に表れる準備や進行は、施主やその家族が行うことになりますので、参拝者は側面から協力することになります。たとえば、親の年忌法要であれば、子である施主の兄弟で費用を分担してもよいでしょうし、参拝者全員に配る”お供養”の品を負担し当たりしても良いでしょう。
ところで、「粗供養」とか「〇〇回忌志」と表書きされる”お供養”ですが、これは単なる引き出物ではありません。ご仏前にお供えし、仏さまからの”お下がり”としていただきたいものです。
参拝者が、当日お供えするものとしては、一般的に金封の「御仏前」や、お菓子、果物といった供物類があります。「御仏前」が施主への“お礼”ではないことはいうまでもありません。報恩の心から仏さまにお供えするものであり、供物類も同様です。
また、地域によっては「添布施(そえふせ)」というのがあり、これは僧侶への施主の御布施に、他の参拝者が添える御布施のことです。
いずれにしても、参拝者も積極的に法事に参画してください。
ポイント
▶施主と参拝者が法事を営む
▶参拝者は側面から協力する
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学校は夏休み真っ盛りで、これから社会もお盆休みに突入していく時期となりました。
お寺の世界では丁度この時期お盆参りの季節(地域によっては7月)を迎え、忙しく駆け回る僧侶の姿を多く見かけるようになります。門徒さんのご自宅を回って個別にお参りする寺院もあれば、本堂にて合同でご法要をお勤めする寺院もありその形態は様々です。
さて、寺院の本堂ではお盆の法要に限らず、永代経法要や報恩講等、多くの法要が勤められています。そしてこの寺院本堂で大きな法要を勤める際には、その寺院の僧侶のみならず、有縁の寺院の僧侶も出仕することがあります。これはお参り合い、お勤め合い等と呼ばれ、お互いに各寺院の法要に出仕させて頂き、助け合いながら法要を盛り立て、お念仏の輪を広げていく活動と言えるでしょう。
現在は新型コロナウイルス感染防止の観点から、法要やお勤め合いを一時的に中止している寺院もございますが、落ち着いた折にはおそらく今まで通りの法要が勤められることと思います。皆様も所属寺の法要に参拝されます時は、普段のご法事とは違い、多くの僧侶が唱える声明(お経)の迫力や心地よい響きを味わってみてはいかがでしょうか。
称名
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「お盆にはどのようなお飾りをすればよいのですか」と、尋ねられることがあります。これは、お盆独特の飾り方があるのではないかと思われているからでしょう。
確かに一部の風習では、精霊棚を作って、お膳を用意するところがあるようですが、浄土真宗ではそういったことはいたしません。一般の法要と同じように、菓子、果物といった供物を仏前にお供えし、前卓には打敷を掛ければよいでしょう。
ちなみに精霊棚というのは、先祖の霊を迎えてもてなすため用意する棚で、位牌を並べ、その前に精進料理のお膳や迎え団子、その他盛りだくさんの果物、野菜を供えるものです。また、ナスとキュウリにおがらをさして、牛と馬に見立てます。これらは先祖の霊が乗るための乗物だそうです。
この精霊棚の前で行う読経が、いわゆる「棚経」と呼ばれているものです。つまり、先祖の霊を丁重にもてなし、お慰めして追善回向しようとするのが、精霊棚の慣わしです。
しかし、こうした風習はお盆本来の由来から言えば少し筋違いではないかと思います。
そもそもお盆とは、仏弟子の目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡き母を救おうとして、その母に食物を与えるのですが、救われず、お釈迦様の導きで衆僧に供養して初めて救われた(その日が七月十五日)という故事から起こった行事です。すなわち、亡き母や特定の先祖に供物を捧げるというのではなく、自らが深く仏法に帰依して、限りなき仏さまのはたらきを仰いでいくということでしょう。言い換えれば、ご先祖へのご恩に報いる道は私自身がお念仏を喜ぶ身となることです。ご先祖への報恩の思いから仏法を聞かせていただき、阿弥陀さまのお力によって救われていく身の幸せを喜ぶのが浄土真宗のお盆です。
ですから、精霊棚を設けるのではなく、ご本尊の阿弥陀さまを心から仰ぎ、お供え等をしてください。
なお、「棚経」という言い方もしません。
ポイント
▶精霊棚は設けない
▶先祖の霊に供物を捧げるのではなく、阿弥陀さまに供える
▶棚経という言い方はもしない
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永代経とは、”永代読経”の略で「末永く(永代に)お経が読まれる」という意味です。そこからまた「お寺が存続し、仏教が繁盛し続けるように」という願いが込められた意味にもなります。つまり?お寺が護持されること?そこで子や子孫が代々にわたってみ教えを聞き喜ぶことーこの二つが「永代経」の心だと言ってよいでしょう。
そうした願いと志を持って、ある程度まとまったお金や、仏具などをお寺に納めるのが「永代経懇志」であり、その報恩の行為を受けて、お寺が開く法要が「永代経法要」です。
したがって、「永代経を上げる」という場合の”永代経”は「永代経懇志」のことですし、「永代経が勤まる」といえば「永代経法要」をさしています。
多くのお寺では、この永代経法要を、報恩講に次いで盛大に勤められます。おおむね年一、二回、春や秋に行われるようです。
また、懇志については、故人への追慕から納める慣わしになっていて、表書きには「永代経志」などの文字の右肩に、故人の法名を記したりします。これは、”故人のために納める”というのではなく、故人の「永代にみ教えが伝わるように」との意思を受けた施主が、”故人になり代わって納める”からです。”故人への追善供養”ではありませんので、ご注意願います。さらに、いったん納めてしまえば”責任が果たせた”と考えるのも困ります。ある方など「永代経を納めましたので、お参りに行かなくてもちゃんとお経をあげてくださるので安心です」と話されていましたが、これでは永代経も台なしです。お念仏の教えを私に伝えてくださったご先祖の遺徳を偲び、何より私自身が聞法に励んで、喜びを子孫に伝えていくーーそうした思いこそが永代経の心です。
ポイント ▷ 故人への追善供養ではない
▷ お寺が護持されること。子や孫にわたってみ教えを聞き喜ぶことを願って勤める法要
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もっとも、地域によって命日の前日(逮夜)から七日ごとに勤めるところもあり、日取りについてはお寺にお尋ねください。こうして勤める中陰法要は、亡き人への追善のためではなく、むしろ、遺族自身が阿弥陀さまのお心をいただきながら、悲しみから立ち直っていくための機縁となる法要です。
死別の悲しみを乗り越えていく過程をグリーフワークというそうですが、そこでは、四段階の精神状態に分類されています。最初が「ショック期」、二番目が「喪失期」、三番目が「閉じこもり期」、最後が「再生期」です。個人差があるにせよ、こうした遺族の心の動揺と変化に寄り添って、節目、節目に勤めるのが中陰法要なのです。
要は、悲しみの中から、”私”の人生の確かな拠りどころを見出していくことであり、それは阿弥陀さまの大悲のお心を聞き、自分の心で受け取っていくことにほかなりません。その「悲しみと立ち直り」に費やすために与えられている期間が中陰であり、それが約五十日(三十五日)に満中陰法要を済ませてしまう方がけっこうおられます。
なぜ「四十九日が三ヵ月にわたるといけないか」と言うと「始終苦(四十九)が身につく(三月)から」というのです。そういう語呂合わせを気にして中陰期間を切り上げるようでは確かなよりどころを得たとは言えません。
定められた中陰の日でないとダメとは申しませんが、迷信に振り回されることだけはやめてください。満中陰に限らず、中陰の法要は出来る限り省略せずにお勤めしましょう。
ポイント ▶ 死後四十九日間を中陰といい、四十九日目を満中陰という
▶ 「満中陰が三ヵ月にわたるといけない」というのは迷信
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しかし、これには、お寺としてはほとほと困ってしまいます。つまり、お寺に葬儀を依頼するということは、遺族(故人というより)がそのお寺の説いてある教え(私たちの場合なら浄土真宗)を聞きしたがっていくということが前提にあるわけで、だからこそお寺は葬儀を引き受け、教えに則って儀式を行うのです。言い換えれば、遺族はそのお寺の門徒になるということなのです。ですから、何よりも遺族の方たちが、悲しみを縁としてみ教えを聞かねばなりません。けっして葬儀がすんだら”おしまい”ではなく、むしろ”出発点”であるわけです。
お寺を決め、葬儀を依頼するということはそれだけ重要な意味を持っているのです。もし、故郷などにお寺があり、先祖のお墓もあるということなら、まずそのお寺に連絡をとり、葬儀の相願をしてください。そして、今住んでいる近くの同宗派のお寺を紹介してもらうなり、適切な指示を仰いでください。
いずれにしろ、お寺との関わりは葬儀や年忌法要だけではなく、日ごろから親しんでいただくことが大切です。お寺を”死者のための場”ではなく、私自身の”聞法の場”としていただきたいのです。もし”死者のための場”としてしか捉えられなければ、あるいは”金のかかること”や”付き合いにくさ”に頭を悩ますことになるかもしれません。しかし、”聞法の場”として関われば、無量の喜びを与えてくれる所となるでしょう。
<ポイント>
▶ お寺は「死者のための場」ではなく、私自身の「聞法の場」
▶ 悲しみを縁としてみ教えを聞くことが大切
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先日も、ある門徒に「彼岸会には、ぜひお参りください」とお声をかけたら、「いやあ、その日はお墓参りしようと思っているので、失礼させていただきます」との返事。どうやら、お寺の法要よりも、お墓参りの方を大事に思っておられるようです。しかし、お彼岸の意味からすれば、今生きている”私”が仏法を聞かせていただかなくてはなりません。
お彼岸は、ご承知のように年に二回、春分と秋分の日(お中日)をはさんで、前後一週間ずつあります。この期間は、実は、仏道修行のために設けられたものです。本来ならば、毎日修めなければならない仏道ですが、ついなまけがちになるところから、「せめて季節のよいこの時期だけでも・・・・・」と設けられた日本独特の仏教行事なのです。また、浄土教がさかんになると、西方に沈む夕日を眺めて、浄土に想いを馳せるようにもなりました。”彼岸”とは、迷いの世界を”此岸”というのに対して、さとりの世界を表す言葉で、お彼岸とか彼岸会という場合の”彼岸”は「到彼岸」の略、つまり「迷いの世界からさとりの世界へ到る道の実践」を意味します。
浄土真宗では、さとりに到るための修行はせず、また、日々のお念仏の味わいが重要なのですが、このお彼岸の期間を「さとりの世界(浄土)へ至らしめてくださる阿弥陀さまのお徳を讃え、そのお心を聴聞させていただく仏縁」として大切にしています。”彼岸”は”あの世”とイコールではありません。「迷いの世界である”あの世”にいる故人を慰める」のではなく、」真実の世界である浄土に生まれた故人を偲びつつ、自分自身がその浄土に到る道であるお念仏の教えに耳を傾ける」ご縁の期間であり、法要なのです。
◎ポイント
▷ お彼岸は「先祖の墓参りをする期間」ではなく、「さとりの世界へ到るみちを問い聞く期間」
▷お寺での法要にお参りしよう。
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皆さまの日常も大きく変化した中で、マスク着用や手洗いアルコール消毒、三密にならないようソーシャルディスタンスを保って、飲食や会合を控えて・・・・と、制約が多い日々を、一年近く続けておられるのではないでしょうか。
私たち、お寺の日常においても法事や法要、そして勉強会や住職の会議など、多くの場面で開催方法やあり方について試行錯誤を重ねながら、日々の法務や公務に務めさせていただいております。
その一つに、ネット会議があげられるかと思います。組内や教区内での会議においても、ZOOMを利用したネット会議が多くなりました。当初は戸惑うことも多かったのですが、気が付けば適応させていただいている自分自身に気づかされます。
しかしながら便利な反面、長時間の会議で画面とにらめっこしていますと、歳のせいか疲れるものですが、なにより会議が終わった後に立ち話をしながら、「会議でのあの意見は〜」とか「あの提案のここをこうすれば〜」といった、終わった後のいわゆる「フェイス トゥ フェイス」での立ち会議が出来ないのが、少し寂しくも感じます。
この日々がいつまで続くのか、不安な中にありますが、いつの日にか以前のような「フェイス トゥ フェイス」の会議後の時間が戻る日を待ちたいものです。
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時々、ご門徒さんでなく初めて参拝された方から、「 御朱印をお願いします 」と御朱印帳を出される事がございます。また、先日もお電話で同様の問い合わせをいただく事がありましたが、誠に恐縮ではございますが、浄土真宗のお寺では御朱印をおこなうお寺は一ケ寺もございません。
その理由も含めご説明をさせていただくのですが、その後、お尋ねになられた方の少し残念そうなお顔を見ると、こちらも申し訳がない気持ちになってしまいます。今回は、なぜ浄土真宗のお寺には「 御朱印 」がないのかを、今一度、皆様にも知っていただきたくお伝え致します。
御朱印は、一説に江戸時代に盛んになった風習と言われています。その根底には、経文を写してお寺や神社に納める(納経)が、亡き人のための追善供養の一環として行われてきたものであり、その写経を納めた際にいただく受領書が御朱印となったと伝えられています。ここでいう追善供養とは自らが善行を積み重ね、その善行を亡き人や他者に振り向ける行為をいいます。
浄土真宗の教えでは、日々、悪業煩悩を積み重ね続ける凡夫である私たちが自分の力でどれほど功徳を積み重ねたとしても、また追善供養を行っても他者や亡き人を救うすべは持ち合わせていませんし、他者どころか自らの力で自らの流転のいのちを救うこともできない、愚かで無力な存在といただきます。
しかし、このような流転を繰り返すばかりの救われざる私たちに、すでに阿弥陀如来は「 かならず救う、安心してまかせよ 」と救いの手を差し伸べておられます。浄土真宗は、そのはたらきと誓願を聞かせていただき「 はい、おまかせします 」と信託(乗託)させていただく教えです。
ですから追善供養の必要がなく、その行為の一環である御朱印を浄土真宗のお寺が発行することもありません。
大切なことは、今を生きとしける私たちが亡き人の仏事(年忌の法事や通夜葬儀)、そして毎月や季節ごとの法座(法要など)のご法縁(ご仏縁)を通して、自らのいのちを聞かせて(聴聞)いただき、自らが往生浄土の念仏の一道を歩ませていただいている事に感謝されることを、亡くなられた先人方は願っておられると受け取らせていただきましょう。
どうぞ、お近くの浄土真宗のお寺に御朱印帳でなく、聴聞のお時間をお持ちの上、ご参拝いただければ幸いです。
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お葬儀やご法事の際、お供え(茶葉や菓子類など)やお布施を施主様からお預かりさせていただきます。
お預かりと書きましたように、施主様が「 御本尊にお供えしてください 」という願いの中で、お預かりした財の施しを住職(や僧侶)が受領し、お寺の本堂にお供えさせていただくものです。
私(埼玉組広報担当・埼玉県内のとある本願寺派寺院住職)は、お葬儀の際など控室でお布施をお預かりする際、出来る限り申し上げることがあります。それは、
「 お布施はけっして私・住職(僧侶)へのお礼ではありませんし、通夜葬儀の読経料でもございません 」
「 喪主様やご遺族の皆様の、尊い財の一部を葬儀というご法縁に際して施(ほどこ)していただいた御布施としてお預かりし、お寺に戻り、お供えさせていただくのです 」
「 このお布施は、私共のお寺(〇〇寺)では、次の世代やさらにその先の後世に生きとし生ける方々に、仏教そして浄土真宗の教えを伝えていく伝道懇志とさせて受領させていただいています 」
「 尊い布施の行いに住職として感謝申し上げます 」
とお話するんです。
近年、ネットの情報が氾濫し、お布施が高いとか安かったとか、あたかもサービスの対価のように扱われているように感じるのです。また、そのような(ネットや葬儀社などを介した)派遣僧侶のなかには、お寺の実態を持たずにアルバイト感覚で法務を請け負うマンション僧侶(布教活動や伝道活動を行わず、マンションに住み、読経のみの依頼を受けている)は、まさにお布施の意味をはき違えているではないでしょうか。お預かりしたお布施を仏法興隆の為にと所属寺にお供えもせず、アルバイト代のように扱い生活費や遊興費とされているのであれば、あまりにも悲しいと言わざるを得ません。
私をはじめ、正規のお寺(埼玉組の寺院をはじめ宗派から承認された布教所など)と住職としての責任と願いは、今はもちろん後世まで、釈迦牟尼世尊が、そして宗祖が顕かにしてくださった、仏の教えをそして浄土真実の教えを伝えさせていただくことこそが、お寺と住職(僧侶)としての責任でありご恩報謝の生き方である、と日々いただいているのです。その活動として、各寺院が出来る範囲の中で寺報(お便り)を発行されたり、定例の法話会や恒例法要を勤修されたりといった寺院活動を継続させていただいているのです。またお寺のなかには、子ども会や寺子屋スクール、写経の会や聖典の学習会、または公開講座等を開催し、仏教・浄土真宗の教えを伝える活動(伝道活動)を日々行わせていただいているのです。すべて皆様からの年会費やお布施といった財の施しが、この活動を支え、浄土真宗本願寺派という宗派や本山・本願寺、そして仏法を支えているのです。
これをお読みの門徒さんや、初めて仏事をお迎えになられる皆様も、どうぞ100年後・200年後に生きる、私たちが見ぬ後世の方々のために活かされる、財施(お布施)をしていただければ一住職として嬉しいですし、励まされるのです。
合掌
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ただ、取り急ぎ俗名 ( 生前のお名前 ) でお葬儀をされる場合もありますが、必ず所属寺 ( 菩提寺 ) がある場合は葬儀の前か後に、または、所属寺が無い方も埼玉組内の正規寺院にてご相談にのらせていただき、法名を授与致しますので、お気軽にご相談下さい。
たまに葬儀後も俗名のままにされる方がおられますが、いくら故人の意思だとはいえ阿弥陀如来のすくいにいだかれ、往生の素懐を遂げられるのですから、仏さまとしての名のり ( =法名 ) をいただかれるのが本来です。ですので、時間が経っても結構ですので、俗名のままにならないよう、施主さんや御遺族の方は是非ご留意ください。
なお、法名授与にあたっては、浄土真宗本願寺派の定めている 「 法名授与規程 」 第三条に、浄土真宗本願寺派 ( 宗派台帳に登録された ) 住職・又は住職代務が法名の授与をできると規程されていますので、知り合いの僧侶 ( お寺があるかどうかも分からない僧侶や他宗派の僧侶 ) 、またインターネットをはじめとした派遣僧侶や、親戚で詳しい人から授与されたといった類のものは正式に認められませんことをご案内致します。
宗祖・親鸞聖人が、自らのことを 「 釋 親鸞 」 と名のられ、800年近く後世の私たちも宗祖と同じく阿弥陀仏に等しくすくわれ、仏と成らせていただくことを、法名をいただく際に、ご家族・ご親族の方々もあらためて喜ばせていただきましょう。
合 掌
お正月になると、毎年、大勢の方が初詣に出かけます。テレビでは有名な神社の参拝風景を中継し、また、どこそこの神社に何人の参拝者があったか等と報道されます。ちなみに、東京では明治神宮、京都では伏見稲荷大社、大阪では住吉大社といったところがいつも参拝者数ベストテン入りしています。これを見ても明らかなように、どうも“ 初詣 ”と言えば、神社にお参りする人が多いようです。
それでは、どういう思いで初詣に出かけるのかというと、レジャー気分や雰囲気もあるのでしょうが中身は“ 願いごとをする ”のが多いのではないでしょうか。「 今年一年、健康でありますように 」とか、「 仕事がうまくいきますように 」とか、また、若い人であれば「 希望の会社、学校に合格しますように 」とか、「 よい結婚相手が見つかりますように 」といった類の願いをかけるのでしょう。
“ 初詣 ”という言葉からは、どうも「 願いごと 」や「 悪いことを祓いたい 」といったことが連想されます。しかし、初詣は「 新年の初参り 」ということですから、やはり自らの信じる教えに則して、その宗教施設にお参りするのが本筋ではないでしょうか。浄土真宗の門徒であれば、ご縁のある手次のお寺( 所属時=菩提寺 )なり、京都・本願寺や、東京・築地本願寺にお参りするということです。
ただでさえ、自己(家族を含め)の欲望や願いばかりが前面に出がちな私たちです。心改まるお正月なのですから、昔の浄土真宗の教章にある「 現世祈祷や まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない 」の御文のとおり、じっくりとわが身を振り返り人生にとって何が大切なのかを見つめながら、確かな拠りどころとなるお念仏を味わってみましょう。それでこそ“ 浄土真宗門徒の初詣 ”です。
また、正月には自宅の仏壇(ご本尊の阿弥陀仏)でも、家族そろってお参りしましょう。
合 掌
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この時期になりますと度々「 浄土真宗では お盆にどのようなお飾りをすればよいのですか?」と、尋ねられることがあります。これは、お盆独特の飾り方があるのではないかと思われているからでしょう。
確かに浄土真宗以外の他宗派や、一部の地域の風習などで精霊棚を作ってお膳を用意したり、お盆の期間中に盆提灯を玄関先に掲げて、迎え火や送り火をする所があるようですが、浄土真宗ではそういったことは一切いたしません。一周忌や三回忌等の法事と同じように、生花を花瓶(かひん=仏壇の花立)に生け、お菓子・供物を仏前(お仏壇)に供えるだけです。【 上の写真が、浄土真宗本願寺派の正しいお仏壇のお飾りです。ロウソク立てや花瓶・香炉などもこの通り決められた場所に配置します。また浄土真宗では位牌は作りませんしお仏壇にも置きません、過去帳を作成し(寺院で記載してもらいましょう)お仏壇に置くのが正式な作法です。またお盆の精霊棚は勿論のこと、水やお茶、酒やタバコ等もお供えしてはいけません。また刺身やお寿司等の生臭物も供えないように 】
ちなみに精霊棚というのは、先祖の霊を迎えてもてなす為に用意する棚だそうで位牌を並べ、その前に精進料理のお膳や迎え団子、その他盛りだくさんの果物野菜を供えるのだそうです、また、ナスとキュウリにおがらをさして、牛と馬に見立てるのは先祖の霊が乗る為の乗り物だそうです。そして、その精霊棚の前で先祖の霊を丁寧にもてなし、お慰めして追善回向しようとするのが、精霊棚の習わしです。
しかし、こうした風習はお盆本来の由来から言えば、少し筋違いであると言えます。
そもそもお盆とは、お釈迦さまのお弟子であった目連尊者が、餓鬼道に堕ちた亡き母を救おうとして、その母に食物を与えるのですが、救われずお釈迦さまの導きで衆僧に供養して、初めて救われた(その日が7月15日)−という故事から起こった行事です。
すなわち、亡き母や、特定の先祖(○○家の先祖代々など)に供物を捧げるというものではなく、自らが深く仏法に帰依して 限りなき仏さまのはたらきを仰いでいく、ということでしょう。
言い換えれば、ご先祖のご恩に報いる道は、今を生きとし生ける私自身がお念仏を喜ぶ身となることです。ご先祖への報恩の思いから仏法を聞かせていただき、阿弥陀如来のはたらきにより救われていく身の幸せを喜ばせていただくのが、浄土真宗のお盆です。
ですから、精霊棚を設けるのではなく、ご本尊の阿弥陀如来を心から仰ぎ、特別なお供えではなく通常の回忌法要と同様のお供えをし、ご家族皆様で「 なもあみだぶつ 」とお念仏申しましょう。
( 浄土真宗 仏事のイロハ / 本願寺出版社より抜粋 )
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先日、埼玉組が主催しての仏教公開講座を、さいたま市南区の【 さいたま市文化センター 】ホールを会場に開催させていただきました。
埼玉県内の 浄土真宗本願寺派の宗派包括(正規)寺院の門信徒の皆様方はもとより、最近ご縁をいただかれた方や、初めてのご縁の方など誠に多くの皆様のご参加をいただき、ホール満堂の中での開催!となりました。埼玉組役員をはじめ、スタッフ一同心から感謝申し上げます。
さて、今回の公開講座開催にあたって、多くの皆様方に周知いただけるよう、ツールの一つとなりましたのはネット(ホームページやSNS等)の活用があげられます。私、埼玉組の広報担当( 埼玉県内の某寺院住職 )の寺も、今から10年前にホームページを開設( IBMのホームページビルダーというソフトを使い、住職の自らの手作りHPでした )して以降、多くの仏事のご質問や法事などの御依頼をはじめ、定例法要や常例法話会へのご参加をいただいたりと、地域や初めてのご縁の方に【 知っていただく 】ツールとなり、今も継続してツールとなっています。
その後、各寺院がホームページやSNS等をはじめ、類似したサービスを使用して、浄土真宗本願寺派の宗派包括(正規)寺院を多くの方に知っていただこう!という、デジタル化の取り組みを埼玉組としておこない、埼玉組18ケ寺のホームページが開設されていました。
さて、4月から新年度になるわけですが、お寺でも新年度にあたりホームページ新規開設や、SNS、情報提供サービスを利用しての情報発信など、新たに5ケ寺の寺院が開始されましたのでご紹介します。
1・埼玉県吉川市の 清浄寺( しょうじょうじ )さんは、ホームページ を開設されました。
2・埼玉県所沢市の 善了寺( ぜんりょうじ )さんは、i タウンページ を開設されました。
3・埼玉県春日部市の 善巧寺 ( ぜんぎょうじ )さんは、Facebook を公開されました。
4・埼玉県三郷市の 三郷布教所聞信寺( もんしんじ )さんは、ホームページ を開設されました。
5・埼玉県入間市の 入間布教所超法寺( ちょうほうじ )さんは、ホームページ を開設されました。
形態はそれぞれですが、お寺とのご縁をつなげていただく一歩!であることを心から喜ばせていただくばかりです。
上記寺院を含め、現在(3月25日)埼玉組内寺院23ケ寺が、皆様方との架け橋としての情報発信をおこなってまいります。どうぞ、今までお寺とのご縁がない方も お近くの正規寺院まで仏事やご法事の御依頼などお気軽にお問い合わせください。
合掌
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来年(平成30年)2月16日(金曜日)午後1時から4時まで、浄土真宗本願寺派・東京教区埼玉組の公開講座を埼玉県さいたま市の【 さいたま市文化センター・小ホール 】を会場に開催させていただきます。
「 ブッダ × 落語 」をテーマに、四代目 桂 春團治 師( 平成30年2月11日襲名予定 )と、釈 徹宗 師( 如来寺住職・相愛大学教授 )を講師にお迎えして、一部・落語( 演目『 死ぬなら今 』『 鰻の幇間 』を予定 )、二部・法話( 講師の 釈 師はNHKテレビ『 趣味Do楽落語でブッダ 』出演等 )の二部構成となります。
肩の力を抜いて、法味と笑いがあふれるひと時をお過ごしいただければ幸いです。
ご参加は、埼玉組36ケ寺の門信徒の皆さまは所属寺(菩提寺)まで参加申し込みをお願いします。本願寺派寺院とのご縁が初めての方は、埼玉組公開講座詳細ページ(終了済イベントにつきリンクを削除) をご参照の上でお申し込みください。*( ご参加にあたっては事前お申し込みが必要となります。受け付け後にご自宅に整理券をご郵送させていただきます)参加費は無料です。
法話に関心のある方、落語に関心のある方はもちろん、どなたでも聴講いただけますので是非ご参加ください。
お目にかかれますことをお待ちしております。
合掌
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葬儀の際、以前は会葬礼状に【 清め塩 】を入れられる事例が多々ありましたが、最近は「 浄土真宗では【 清め塩 】を入れない(用意しない)」とうのが、作法であるとの認識が広まってきたおかげで、葬儀社さんが事前に遺族や会葬者にご案内くださり、【 清め塩 】を入れない事例が増えてきたことは喜ばしい限りです。
なかには、会葬者向けに【 浄土真宗では〜〜 】といった立て看板を受付台近くに設置してくださる葬儀社さんもあり、住職としては、作法に敬意を示し順守してくださる姿を有り難くいただくばかりです。
先日、そんな熱心な葬儀社さんのご担当者から空いた時間に「 ご住職さん、ひとつ失礼かと存じますが、私が不勉強なもので・・・ 」とご質問をいただきました。それは、浄土真宗では【 清め塩 】を会葬礼状に入れない(用意しない)という作法を行っているものの、なぜ必要ないのかを遺族に間違いなく伝えたいという、ご担当者の思いからのご質問でした。
私(埼玉組内・某寺院住職)は、こうした質問をいただくことを大変嬉しく思います。特に、お寺とのご縁が今までなく、仏事が初めてといった喪主様の場合、葬儀社の担当者が仏事や儀式の案内を一番最初にいただく必要があるからこそ、間違った作法や情報を喪主様に伝えられると、その間違ったままの作法や情報が、次の世代・その次の世代に継承されてしまうので、葬儀のプロとしても間違ってはいけない、という意識を持ってくださりご質問いただくことに対して私は大歓迎なのです。
実際、担当者が宗派毎のお作法等をきちんと調べず、喪主様に適当な情報を伝えたり、他宗派の作法なのに浄土真宗でも行います等と、間違ったことを平気で伝える葬儀社の担当者が少なからずおられるのも、悲しいかな現実の状況なのです。
さて、話を戻して【 浄土真宗では何故、清め塩を用いないか 】のご質問があった際にお答えですが、私は以下のように伝道資料センターの文章を参照して説明させていただいております。
≪ 浄土真宗では 「 清め塩 」 を用いません ≫
清め塩の由来は、人間のもつ 「 死 」 への恐れから 「 死 」 を不浄なものとしてとらえ、それを自分から遠ざけようとする思いから生じたと考えられます。不浄 (死のケガレ) を清めるために塩を用いるというわけです。
浄土真宗においては 「 死 」 を不浄なものとはとらえません。それは、人間としての終着駅は仏としての始発駅であるとして、「 死 」 を仏としての新たなる誕生 「 往生 」 としてとらえるからです。
また清め塩をまくということは、生前親しんだ家族や友人達を、死を迎えた途端に不浄な存在として扱うことにもつながってしまいます。 「 死 」 は誰しもが決して逃れることができない問題です。私も例外ではありません。ですから浄土真宗では清め塩を必要としないのです。
以上です。どうぞ、浄土真宗の方であれば 「 諸行無常のなか、死もまた我にあり 」と領解させていただき、死をケガレとしてとらえるのではなく、仏としての往生としていただこうではありませんか。
また上記のとおり、葬儀だけでなくお墓を新たに建立された際の【 建碑(けんぴ)法要 】においても、塩や酒・米粒をまくことは、浄土真宗ではおこないません。
合掌
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埼玉県内の、浄土真宗本願寺派( 本山・本願寺 / 通称・西本願寺 )の正規寺院、ならびに布教所は平成29年7月現在で、36のお寺があります。
そのうち、お寺のホームページ(HP)やネット上の案内板、NTTの情報版等、ネット上に16の寺院がページをつくり、そして活用しながら、広く多くの方々に浄土真宗のお寺を知っていただけるようしています。
ネット社会ですので、「 近くの浄土真宗のお寺は? 」、「 法座(法話会)を近くで行っている本願寺派のお寺は? 」等と、検索される際に、ホームページや案内ページがあると、所属寺(菩提寺)がなく、初めてのご縁の方にも知っていただく為に有効であると、数年前に埼玉組では「 お寺のホームページを開設しよう!」と研修会や講習会等を開催させていただきました。
当初、数ケ寺のみのホームページから始まった埼玉組内のホームページ・案内ページも、先ほど述べましたように現在は、16ものお寺が運用させていただくご縁となっています。
そしてこの度、さらに2ケ寺がホームページを開設されました!
1ケ寺は、さいたま市南区に所在する【 浄広寺(じょうこうじ)】さんです。こちらは、副住職のお孫さんが、立ち上げられたそうです。
もう1ケ寺は、所沢市旭町に所在する【 昌平寺(しょうへいじ)】さんです。
上記2ケ寺のお寺さんがHPを開設され、ちょうど組内の半数18ケ寺のお寺さんがホームページ、または案内ページを持たれたことになります。埼玉組としても尊いご縁を喜ばせていただくばかりです。
なお、埼玉組内寺院のホームページ・案内ページ(ネット上の)は、組内寺院マップ のお寺名が青色になっているところをクリックしていただくとリンク先に飛びますので、どうぞ訪問してみてください。
合掌
]]>浄土真宗本願寺派( 本山・本願寺 / 通称・西本願寺 )の埼玉組( 東京教区埼玉組 )には、正規寺院( 宗派被包括寺院 )が33ケ寺と布教所( 首都圏都市開教拠点 )が2ケ寺ございます。
この35ケ寺が、寺院を聞法の道場として浄土真宗の教えを後世まで伝えさせていただきたいと願い、宗祖・親鸞聖人が顕かにされたお念仏の教えを伝えさせていただく伝道教化の「 お寺 」として、埼玉県内で歩ませていただいております。
法座活動の回数や内容については、それぞれの寺院の特色や地域性・世代差があり一概ではありませんが、子育て世代と子ども達に向けた法座活動への特色を出すお寺もあれば、団塊の世代に向けた法座活動を取り入れているお寺、コーラスや音楽を特色としたお寺、公開講座や勉強会を積極的に開催されるお寺など、まさに色は色々です。
その共通項は、法事や葬儀でのお経を配達するのみの「 読経のオガミ屋 」としての寺院や僧侶ではなく、上記の通り法事や葬儀での読経という法施はもちろん、かけがえのない方を亡くされた喪主様やご遺族の悲しの中に、仏さまの願い・誓いが向けられていた事を取り次がせていただく「 布教伝道の使 」としての寺院と僧侶のあり方を、日々実践させていただいているのです。
しかしながら、前回のブログ( 4/21 )でも記載させていただきましたが、浄土真宗本願寺派とまったく関連の無い宗教法人(寺院)が、浄土真宗本願寺派として葬儀や法事といった儀式を執行している現実は悲しい限りですし、なによりその事が判明した喪主様やご遺族の悲しみは、尚更でありましょう。
そのような状況を踏まえ、今まで浄土真宗の寺院がなかった埼玉県入間市内に、今回新たな布教所が誕生しました!!
当、ホームページ内の組内寺院マップにも新規記載致しましたが、新しい拠点( 布教所 )は
いるま布教所・超法寺 / 専従員 末田雅裕 師 で、布教所の住所は、埼玉県入間市東町 5−8−28 です。
どうぞ入間市内をはじめ近隣各地の方で、正規寺院(拠点)をお探しの方や、ご聴聞の場をお探しの方は、どうぞご連絡いただければ幸いです。
ようこそ、ようこそ36番目の聞法の道場へ!
合掌
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先日、私・埼玉組広報担当のお寺に、お葬式をされた葬家の方が立て続けて3軒ご相談に来院されました。
と申しましても、その3軒の方は私のお寺が執り行わせていただいたご葬家ではなく、浄土真宗本願寺派の埼玉組のご寺院が執り行われたご葬家でもありませんでした。
1週間の間にお見えになられた3軒の葬家の共通した相談内容は、「 葬儀の際に【 浄土真宗本願寺派(西本願寺)】の正規のお寺を紹介してください 」とお願いし、葬儀社が手配しますという事だったのに、葬儀後に調べたら来たお寺は本願寺派のお寺ではなかった。今後(49日法要等)のことで悩んでいる。相談にのっていただきたい 」という内容でした。
伺うと、その1軒目の方は埼玉県西にある『 遠〇寺 』という寺院が葬儀を執行していました。2軒目の方は埼玉県南にある 『 〇〇院 』という寺院が執行していましたが上記2ケ寺とも浄土真宗本願派の寺院ではございません。また3軒目の方は、同じ浄土真宗ではありますが、東京都の『 真宗高田派 』の寺院であったそうです。
全ての喪主様が郷里の親戚にまで確認され、明確に「 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 」を指定され、葬儀社も「 手配する 」旨を回答されていたのに、このような現実がいまだに繰り返されていることに、そしてその事が大切な方の葬儀後に判明したご遺族にとって、更なる悲しみと悩みになっている現実に一住職として悲しさと悔しさが込み上げてきます。
思考が多様化する現代社会の中にありますので、喪主様によっては「 読経さえしてもらったら、そのお寺が何処の宗派なのか問わない 」 という方もおられるでしょう。また「 浄土真宗であれば、何派でもこだわらない 」という方もおられるかも知れません。そういった方であれば、未包括であろうとも他宗教であろうとも問題にはならないのでしょうが、せめて『 浄土真宗本願寺派 』と明確にリクエストされている方に対しては、正規寺院への案内を ” 施行者責任 “ として葬儀社さんには行っていただきたいのです。
埼玉県内には平成29年4月現在、36ケ寺の浄土真宗本願寺派の正規寺院・布教所があります。
郷里の親戚のお寺さんや、京都の本願寺、そして東京の築地本願寺に問い合わせていただいても、台帳に登録されている寺院、登録された布教所として間違いがない正規寺院(被包括寺院)です。どうぞ、ご遺族の悲しみを増幅させない施策を関係業者様にいただければ幸いです。
また、この記事をお読みで所属寺(菩提寺)がない方も、どうぞ「 危なくなったら考えよう 」ではなく、『 今日とも知らず、明日とも知らず、の無常のいのち 』であるからこそ、今・近所の浄土真宗本願寺派のお寺を探しておこう 」。「 仏法を聞くご縁としよう 」と、あまり重く考えずにお尋ねいただければ有り難いです。悲しまれる、残された遺族の方の姿を見るのは辛いですから・・・。
どうぞ、今・浄土真宗本願寺派のお寺を探しておこう!を忘れずに。
合 掌
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この度、埼玉組内の光善寺( こうぜんじ / 埼玉県越谷市 )が寺院ホームページを新規開設され、サーバーにアップされましたのでお知らせいたします。組内35ケ寺の内、ホームページ開設16番目( 簡易型ページ等を含む )となられました。
ご住職の富谷師は、以前よりホームページ開設の重要性を強く感じ、数年前に埼玉組広報部会( 当時の部会長・龍山師( 教念寺・埼玉県新座市 ))として開催させていただいた、ホームページの開設に向けた講習会でも積極的に質問をいただきました。準備とサイト構築の期間を経て、今回新規開設の運びとなったのでした。光善寺のホームページアドレス(ドメイン)は、http://www.kohzenji.com/ です。
多くのご門徒の皆様をはじめ、寺院( 浄土真宗本願寺派の正規包括寺院 )をお探しの方に知っていただく、素晴らしいご縁となる事をお念じ申し上げます。
また、埼玉組内の善行寺( ぜんぎょうじ / 埼玉県川口市 )が既にある寺院ホームページを完全リニューアルされ、サーバーにアップされましたのでお知らせいたします。善行寺は、埼玉組内でも古くからホームページを既に開設され運用してこられました。昨年(平成28年)には寺院開設10周年を迎え、その記念事業として、ホームページ全面リニューアルの為の準備とサイト構築の期間を経て、今回全面リニューアルとなったのでした。
全面リニューアルに際し、ホームページアドレス(ドメイン)が変更となっています。新しいアドレスは、http://www.zengyoji.jp/ です。
門信徒の皆様、地域住民の皆様、さらには近隣で浄土真宗の寺院をお探しの方と寺院を結ぶ、尊いご縁が一つ増える事を喜ばせていただくばかりです。
合掌
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先月、埼玉組・年末協議会および研修会を、築地本願寺講堂をお借りして開催させていただきました。年末のご多用の中にもかかわらず、組内寺院より多数のご参加・ご出席をいただき、執行部・役員に代わり御礼申し上げます。
今年は、築地本願寺での協議会と研修会の開催ということから、ご住職・副住職さんはもとより、多くの寺族(住職家族や親族)そして坊守様(住職の配偶者)のご参加をいただきました。住職だけでなく寺族・坊守様が一同に会し、浄土真宗本願寺派の宗門法規や、僧侶の本分を中心とした懲戒規定の講義を聞かせていただく時間となりました。
浄土真宗本願寺派は、現在・三権(司法・立法・行政)が分立されています。その中に、国でいうところの司法を扱う、監正局(裁判機関)という審判(司法)制度があります。ここでは、得度を受けた僧侶が、浄土真宗の教えから逸脱した事を広宣流布したり、僧侶として相応しくない言動や違法行為を行った者を審判する機関として設置され、各種トラブルの調停や審判をおこなっているのです。
もちろん、宗門法規という宗派の法律に照らし合わせて、その懲戒規定があるのですが、ここでは裁判官役・弁護人・検察官役がきちんといて、民主的な審判がおこなわれ審決されているのです。
今回の研修会では、この審判(司法)制度を、わかりやすくご教示いただく時間でした。
浄土真宗本願寺派・僧侶として身が引き締まる思いと、ご法義を伝えさせていただく責任の重さ、そしてそこにある僧侶としての本分を、得度以来となる気持ちの中でいただく協議会でした。
お坊さんの世界にも、三権分立の中で監正局(司法)が法の番人、規範の番人としてあるのですよ。
合掌
10月3日〜4日(お寺によっては5日)、京都・本願寺で勤修されました『 第25代専如門主 伝灯奉告法要・埼玉組団体参拝(第1班)を埼玉組で実施させていただき、組内・各寺院の門信徒の皆様200名の方々がご勝縁にあわせていただき、本願寺に参拝させていただきました。
全国各地から両堂(御影堂・阿弥陀堂)がほぼ満堂となる多くの方々が参拝される中、法要が勤修されました。
ちなみに、前回の伝灯奉告法要は、即如門主(前門様)の伝灯奉告法要が1980年4月から10月まで62日間(62座)に執り行われ、全国・世界各地から28万人が参拝されたそうです。
埼玉組では、来年(平成29年)5月に、第2班が法要に団体参拝させていただきます。
旅行実施担当としては、次回の団体参拝に向けて細かい修正点や改良点を精査&改良させていただき、次回も今回同様に安全で事故やトラブルなく終了を心掛けたいと思いました。
まずは、200名の埼玉組から参拝された皆様とともに、尊いご勝縁にあわせていただいた2日間(3日間)に感謝させていただくばかりです。
( 写真は、団体参拝された際に本願寺からいただく参拝バッグと栞、そして寺院毎の写真です )
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先日、埼玉組で組会(そかい)が開催されました。4年任期の中、新たな組長(そちょう)副組長(ふくそちょう)をはじめとした執行部が承認され、また活動計画や予算書・決算書も承認されました。
新たな出発にあたり、現在の浄土真宗本願寺派・埼玉組34ケ寺に加え、このたび宗派の都市開教(宗派のお寺が少ない地域に新たなお寺をつくってゆくプロジェクト)の専従員に任命された大久保さんも紹介(今後、埼玉県三郷市に布教所を開設)され、これから埼玉組・35ケ寺として、浄土真宗の教えを次の世代に伝えさせていただく、伝道教化活動をはじめてまいります。
一つの寺院だけでは取り組めない事柄や問題点も、埼玉組35ケ寺で取り組ませていただき、浄土真宗本願寺派・埼玉組の総合力で「 お念仏に出遇えてよかった 」と門信徒をはじめ出遇われた方々に言っていただける、「 お寺づくり 」にあたらせていただきたいと思います。
新しい、増井組長(ますいそちょう・深谷市 願誓寺)のもと共に歩ませていただきます。
合掌
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2月3日4日と、2日間にわたって築地本願寺を会場として「 浄土真宗本願寺派・東京教区冬季僧侶研修会 」が開催され、研鑚させていただくご縁をいただきました。
一般の企業でも定期的にOJT等、社員研修が行われるように、僧侶も一度僧籍をいただいておしまいではなく一生涯、聞法と伝道に当たらせていただくために、本山をはじめ、教区(東京教区)、組(埼玉組)、各種グループ(若手僧侶の会や布教団他、多数)、そして各寺院でも研修会や勉強会等を行っています。
それは「 仏さまの教え・仏法の教え・成仏の教え 」である、浄土真実の教えを伝えさせていただくため、日々精進と研鑚の中、門信徒の方々とともに “ 僧侶自ら ” も聞法と伝道の場が、まさに『 自信教人信 』たる浄土真宗の寺院であり、浄土真宗の僧侶の姿であるといえましょう。
すべての研修会に参加、とは寺院をお預りする住職としての立場としては、なかなかいかないものの・・・、こうして参加させていただける一回一回のご法縁を喜ばせていただきたいと思います。
「 一生聞法・一生伝道 」 かくありたいものですね。
今回も、研修会を通して、尊いご法縁の場をいただきました。
合掌
去る平成24年8月31日、第1回埼玉組僧侶研修会が築地本願寺に於いて開催されました。重誓偈のおつとめに続いて富谷哲治組長のご挨拶をいただきました。
今回は『 〜 山崎昭壽先生に聴く 勤式の重要性 感動できる声明をめざして 〜 』のテーマで本願寺名誉侍真山崎昭壽先生をご講師にお迎えして行われました。
そして、歴代御門主各々の歴史と勤式の成り立ちを照らし合わせて教えてくださり、大変興味深い本願寺の歴史を知る事となりました。
最後に、参加者からの質問に一つ一つ丁寧にお答え頂きました。師の後輩僧侶への眼差しは、厳しいばかりではなく温かいく、威儀を正してみ教えを伝える使命を新たに感じる事となりました。38名の参加者全員にとって大変有意義な研修会となりました。
(記:教念寺 龍山利道)
1日目:班旗作成・夕べのつどい・仏さまのおはなし・チャレンジランキング
2日目:震災現場見学(那珂湊港)・大洗水族館見学ウォークラリー・サンドアート・ゲーム大会・花火大会・キャンドルナイト
3日目:海岸清掃・家族への手紙・ビンゴ大会・閉校式
仙台別院内・旧あそか幼稚園園舎が東北教区災害ボランティアセンターとなっている。1階は事務所、食堂として使用され、2階は宿泊場所となっている。宿泊は寝袋持参のこと。三河、函館ナンバーの車もあり、日本各地からボランティアが集まってきている。
活動は毎朝8時から始まり、それぞれの現場へと散っていく。夕刻には翌日のミーティングが行われ、夕食のふるまいもある(毎日かどうかは不明)。事務局専従員は1名のみ。2週間くらいで交代するもよう。専従員の負担が大きいことが気にかかる。
仙台市内は日常の社会生活が送られていて、GSで給油も可能、大抵の商店も営業している。しかし、仙台東部有料道路(4/7の余震でひび割れ段差が発生しており、4/13現在通行止め)の下道である県道23号線を多賀城市方面へ向かっていくと、様子は一変する。津波で流された車両があちらこちらに放置されたまま手つかずの状態。
おびただしい数の乗用車、トラック、タンクローリーなどが転がっていたり、木にひっかかっていたり、住居につっこんでいたりする。これでも震災当初より随分ときれいになったとボランティア先のお宅のご主人は話されていた。
現地のラジオ番組では、仙台市では、今回の震災によって例年出るゴミの100年分が出ると報道されていた。今回ボランティアを行った多賀城市でも流出物や浸水した家財などが回収される目途もなく、家の前の道路に積み上げられていく。浸水した自動車には、○月○日回収予定のステッカーが貼られている。
多賀城市ボランティアセンター住民からのオファーを受け、そのオファーに基づいてオーダーを作成し、各地から集まったボランティアを7〜8名の班分けをし、活動させている。たまたま千葉組の有志も同日現地入りしており、共に活動を行った。
4/13現在では、一般住居の清掃、流出物撤去作業が主な内容となっている。
仙台別院への帰路、仙台東部有料道路よりさらに東の宮城野区にある専能寺様に立ち寄らせていただいた。宮城野区や若林区は仙台市内でも津波被害が大きかった場所であり、住居の形をとどめていない瓦礫の山と化している場所もある。
4/13、専能寺様では、東北教区ボランティアセンターによる清掃、流出物撤去作業が行われ、その後、震災後初めてとなる御法座が開催された。私たちが到着したときにはご法座は終了した後で、お寺には誰もおられなかった。
「たとひ大千世界に 満てらん火をもすぎゆきて 仏のみ名を聞く人は 永く不退にかなうなり」ご和讃が脳裏に浮かぶ。
( 埼玉組・彩青会会員 / 善巧寺 榎本 明 )
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